現代社会において「キャリア」という言葉は、かつてないほど多様化しています。
一つの企業に勤め上げる時代は終わり、副業、起業、パラレルワークといった選択肢が当たり前になる中で、私たちは「どう生きるか」という問いに常にさらされています。
一般社団法人ユースキャリア教育機構の副代表を務める高瀬信軌さんは、まさにその多様なキャリアを体現する人物の一人です。
エンタメ、地域活性、キャリア教育と複数の会社を経営し、かつては時価総額数千億円規模に成長したANYCOLOR株式会社(VTuberグループ「にじさんじ」運営)の黎明期を支えた経験も持ちます。

しかし、その輝かしい経歴の裏側にあるのは、決して順風満帆な道のりではありませんでした。過労による体調不良、家から出られなくなった「暗黒期」、そして自分自身の才能の限界への絶望。
今回のインタビューでは、ウェルビーイング研究者である井上寛人氏が聞き手となり、高瀬さんのこれまでの歩みを「感情」と「幸福」の視点から紐解いていきます。

第1章:北海道・十勝の片隅で。新聞販売店の息子が見つめた「働くこと」と「言葉の重み」

井上: 本日はよろしくお願いします。高瀬さんの現在の多角的なご活躍のルーツを探るべく、まずは幼少期のお話から伺いたいと思います。ご出身は北海道の十勝だそうですね。
高瀬: はい、18歳まで十勝の広大な自然の中で過ごしました。僕の実家では、両親が二人三脚で新聞販売店を経営していたんです。今考えれば、全国によくある新聞店だったと思います。しかし、自分にとっては重要な経験でした。
井上: 新聞販売店というと、早朝から多くの方が働いているイメージですが、どのような環境だったのでしょうか。
高瀬: いわゆる「普通のサラリーマン」はいませんでしたね。近所の高校生や大学生がアルバイトで働いているのはもちろん、精神的な障がいを抱えている方々も雇用していました。今で言う「ダイバーシティ(多様性)」が、僕にとっては当たり前の日常だったんです。
井上: 5〜6歳という幼い時期に、そうした環境に身を置いていたことで、何か影響はありましたか?
高瀬: 非常に大きな影響を受けましたね。特に「言葉選び」に対しては、子供とは思えないほど敏感でした。障がいを抱えながら働いている方の中には、とても繊細な方もいらっしゃいます。
僕が何気なく放った子供らしい一言が、彼らにとっては大きなショックとなり、翌日から仕事に来られなくなってしまう、という光景を間近で見てきたんです。
井上: それは、5歳児にとってはかなり重い経験ですね。
高瀬: 「何を言うべきか」以上に「何を言ってはいけないか」を常に考えていました。相手が今どういう精神状態にあるのか、この言葉を投げたらどう反応するのか。相手の表情や空気を読む「観察眼」のようなものは、この時期に強制的に鍛えられたのだと思います。
僕の人への伝え方の原点は、間違いなくあの新聞販売所にあったと思います。
あとは、働いている方やお客さんに挨拶をしないとガッツリ怒られる、というのも、経営家系あるあるだとは思いますがちゃんとありましたね。東京の大学生は挨拶する子が少ないので、東京のサラリーマン家系の多さを凄く感じますね(笑)。
第2章:狭いコミュニティでの「否定感」と、外の世界への興味・衝動

井上: 小学校に上がられてからは、どんなお子さんだったんですか?
高瀬: 自分で言うのもなんですが、勉強はかなりできました(笑)。1学年25人しかいない小さな町の学校でしたが、特に算数とそろばんには没頭しましたね。そろばんは全国大会まで出ていて、最終的には8段まで取得しました。
井上: 全国大会!凄いですね・・・
高瀬: でも、それが孤独感にも繋がっていました。田舎の小さなコミュニティでは、勉強ができることや知的好奇心が高いことは、必ずしも「正解」ではないんです。自分の好きなことや挑戦したいことを話しても、周囲からは「変わったやつだ」と否定されている感覚が常にありました。
世界がそこしかなかったので、当時は被害妄想も含めて「自分の居場所はここじゃない」と強く感じていたのを覚えています。
井上: そのエネルギーが、中学校での「外」に向かった活動に繋がっていくわけですね。
高瀬: そうですね。中学ではバンド活動を始め、ドラムを担当するようになりました。そして中学2年生の時に、初めて自分たちでライブを主催したんです。会場を借り、タイムテーブルを組み、チケットを売って人を集める。
この時、周囲の大人が「あいつらは意外とちゃんとしている」「やる時はやるじゃないか」と評価を翻したんです。自分の力で何かを動かし、周囲の認識を変える快感を知ったのはこの時です。
井上: しかし、その一方で非常にストイックな一面もあったとか。

高瀬: ストイックというか、詰め込みすぎですね(笑)。勉強、部活(卓球部)、そろばん、ピアノ、そしてバンド。すべてに全力で取り組んだ結果、中学2年生の頃に「過労」で倒れそうになったんです。
井上: 14歳で過労、というのは驚きです。
高瀬: 忘れられない思い出があります。卓球部の顧問の先生が、かつて仕事のしすぎで倒れた経験のある方だったんです。ある時、先生が僕の体調を心配して手を差し出し、僕の手の甲を軽くつねりました。すると、赤くなった跡がいつまで経っても消えない。
「いいか、高瀬。俺みたいに体を詰め込みすぎると、こうやって体の反応が戻らなくなる。お前、本当に気をつけろよ」と真剣に諭されました。
井上: その先生の言葉は、その後の高瀬さんに響きましたか?
高瀬: これはやばいな…って思ったんですが、結局自分は「過労しないようにしよう」ではなく、「過労しても大丈夫な人間になろう」ってなってしまいました(笑)。でも、自分の限界値を知るという経験を早い段階でできたのは、今思えば貴重だったかもしれません。
第3章:3.11が変えた「理系」への道と、東京への期待感。
井上: 高校時代は、どんな感じでしたか?
高瀬: 十勝で2番目の高校に入りました。ここは1番目の学校よりも自由な校風で、文化祭も盛り上がるし、それなりに楽しい3年間でした。部活には入らず、外部で大人たちに混ざってバンド活動を続けていました。

井上: 高校生で大人と対等にバンドをやるとなると、苦労もあったのでは?
高瀬: チケットノルマが厳しかったですね。20枚売らないと赤字になる。僕は当時、営業というものが大の苦手で、僕が誘って来なかった人が他のメンバーが誘うと来るという現実と向き合うのが辛かったんです。
今でこそ営業の重要性は理解していますが、20代半ばまでずっと「自分は営業が苦手だ」というコンプレックスを引きずることになった原点です。
井上: 受験の方はどうだったのでしょうか。
高瀬: 高校1年生の3月に、東日本大震災(3.11)が起きました。あの震災は、僕の進路を決定づけました。原発の問題も起きた中で、「新しいエネルギー源を自分が作りたい」という想いで、理系として最難関の東京工業大学(現・東京科学大学)を目指すことにしたんです。
井上: かなりの猛勉強をされたと伺っています。
高瀬: 高校の授業では受験範囲が終わらず間に合わない速度だったので、人生で初めて塾に行きました。1人で塾に見積もりを取りに行き、親にプレゼンをした記憶があります。事業計画書のような勉強計画も立てましたね。
そこから、平日は5時間、休日は12時間。2年生の夏からガッツリと勉強しました。でも、結果は不合格。第3志望だった大学に進むことになりました。
井上: 挫折感は大きかったですか?
高瀬: もちろん悔しかったですが、それよりも「充分頑張ったからこれも運命だ」「早く新しい世界へ行きたい」という気持ちが勝っていました。不合格が決まった瞬間に気持ちを切り替え、新しい環境への準備を始めていました。
第4章:見返してやりたい、と思い動いた大学生時代
井上: 大学に入学してからは、どんな感じだったんでしょうか?
高瀬: 入学して1週間で、関心のあった研究室にノーアポで行き、「入れてください」と直談判しに行きました(笑)。
それだけでなく、専門分野だけでは不安で、苦手な英語にも向き合うことにしました。海外への好奇心も強く、学校の英会話クラスに加えて、ESS(英語研究会)という部活にも入りました。結局、引退となる3年12月まで所属することになります。
井上: 英語が苦手なのに、あえて英語即興ディベートをやっていたんですよね?
高瀬: はい。そこはストイックなところで、お題を出されてから20分で準備し、即興で英語ディベートをするんです。英語も苦手だし、勝負事も苦手なのに、頑張っていましたね。
当時一緒に過ごしたメンバーとは今でも時々会います。それこそ起業している人もいるし、有名企業で重要ポストに就いているメンバーだらけですね。
あとは、当時ネットの海で外国人を捕まえて、skypeで3時間くらい英語の練習に付き合ってもらったり、1年生の頃は街中で外国人に声をかけ英語で観光地をガイドする謎の取り組みもやっていました。部屋の外でも中でもナンパしてましたね(笑)。
井上: 後々、それがフィジー留学に繋がるわけですね。

高瀬: そうです。大学の長期休みを利用して、1年生の春休みにフィジーへ行きました。初海外で中々にマイナーな国に行ったこともあり、大変なことも多かったですが、今となっては良い経験も多いですね。
井上: フィジーではどのような学びがありましたか?
高瀬: フィジーの人たちは、とにかく穏やかで優しいんです。僕がたどたどしい英語で話しかけても、嫌な顔一つせず、ゆっくりと最後まで聞いてくれる。僕は毎日マーケット(市場)やバス停に行き、暇そうにしている店員さんやバスを待っているおばちゃんに片っ端から話しかけました。
井上: まさに「英語でのナンパ」ですね(笑)。
高瀬: そう(笑)。でもそれが一番の練習になるんです。教科書通りの英語ではなく、どうすれば相手の懐に入り、会話を弾ませることができるのか。
フィジーの太陽の下で、言葉の壁を超えた「人間同士のコミュニケーション」の楽しさを再発見しました。夢まで英語で見るようになるほど、のめり込みましたね。
その他にも、クラブ活動みたいなものもあったのですが、あまり興味が持てるものが無かったので、先生や大先輩、向こうで出会った謎の日本人の旅人など、多くの人の力を借りながらボランティアクラブを留学中に立ち上げました。
1番年下だったので心配でしたが、同級生や先輩たちが沢山入ってくれました。近所の孤児院や行政施設・学校を紹介してもらい、そこで様々な活動をさせてもらいました。代は引き継がれ、未だにクラブがあるんですよと風の噂で聞いていますね(笑)。
第5章:暗黒の1ヶ月――「環境はいい、悪いのは自分だ」という絶望
井上: フィジーから帰国し、次のステップへ進まれたと思うのですが、ここからビジネスに関心を持つ時期に突入するのですね。何があったのでしょうか。
高瀬: フィジーで出会った「起業したい」という志を持つ先輩に触発されたり、その後中国との交流事業で出会った面白い学生たちがみんな起業や独立をしていたこと、みんな課題を持ちながらも努力していた姿に憧れていました。
ビジネスの世界に本格的に興味を持ってからは、自分なりに調べて、例えばアメリカへの物販事業など色々試して稼ぐことはできました。けれど、全然楽しいと思える仕事はできていませんでした。
そんなある時、Facebookでイベントを探していたところ、「理系学生向けマーケティング勉強会」を見つけたんです。そこで講師をしていたのが、ユースキャリアの代表であり、現在最も一緒に仕事をしている宇野でした。

井上: ついに運命の出会いですね。当時の宇野さんの印象は?
高瀬: 衝撃的でした。彼は当時、大手ゲーム会社のセガで『初音ミク』のプロモーションなどを手掛けていた実績があり、語られる言葉がすべて「生の情報」だったんです。
アカデミックな理論ではなく、どうすれば人の心が動き、物が売れるのか。その実戦的なマーケティングに魅了され、彼が運営していた「The Creative Tokyo」という学生団体に入りました。
井上: 理想的な先生と環境に出会えた。普通ならそこから一気に加速しそうですが……。
高瀬: ところが、そこからが地獄でした。その団体は、先輩たちが異様に優秀だったんです。プログラミングもできる、マーケティングもできる、その上、人格も素晴らしいし、しかもキャラが強く面白い。
宇野さんをはじめ、先輩たちは僕に惜しみなく知識を授けてくれ、チャンスもくれたし、僕が落ち込めば本気で心配してくれました。
井上: 最高の環境じゃないですか。
高瀬: そう、最高なんです。だからこそ、逃げ場がなかった。これまでの人生、うまくいかないことがあれば「学校の先生が悪い」「親が分かってくれない」「田舎の環境が悪い」と、何かのせいにして自分を保つことができました。
でも、ここでは環境も、師匠も、仲間も完璧。それなのに結果を出せない、動けない。……そうなると、結論は一つしかないんです。「悪いのは、自分だ」と。

井上: 自分の内側にある「ボトルネック」と正面衝突してしまったんですね。
高瀬: はい。自分の性格、甘え、思考の癖。それらと向き合うのがしんどすぎて。1ヶ月間、ほぼ家から出られなくなったときもあります。ストレスで体重は7kgも落ち、鏡を見るのも嫌でした。
宇野さんを西新宿のカフェに呼び出して、「もう辞めます」と伝えたことも一度や二度じゃありません。
第6章:「粘りは合理的」弱者の生存戦略はこれしかない
井上: その「辞めます」という言葉を、宇野さんはどう受け止めたのですか?
高瀬: 彼はただ、優しかった。突き放すこともせず、かといって過剰に引き止めるわけでもなく、僕という人間をそのまま受け入れてくれました。
僕はその後、多くの人が宇野さんの元を去っていくのも見てきました。シンプルに「もったいないな」と思います。これほどまでに真剣に向き合ってくれるリーダーを捨ててどこへ行くんだ、と。
井上: そこで踏みとどまったことが、高瀬さんの「粘りの哲学」に繋がるのですね。
高瀬: そうです。世の中には、自分より才能があるやつ、地頭がいいやつなんて腐るほどいる。でも、彼らの多くは「途中で辞める」んです。どんなに優秀でも、モチベーションが続かなかったり、別のことに目移りしたりして、戦線から離脱していく。
井上: つまり、残っているだけで勝てる、と。
高瀬: その通りです。「粘りは合理的」なんです。人生を諦めず、泥臭く改善を繰り返していれば、ライバルが勝手にいなくなって、気づけば自分がその領域のフロントランナーになっている。
井上: 感情的に「頑張る」のではなく、構造的に「粘るのが一番トクだ」と割り切ったわけですね。
高瀬: はい。だから僕は、どんなに辛くても「部分的に休む」ことはしても「完全に辞める」ことはしないと決めました。このマインドセットができてから、僕の視界は一気に開けました。
第7章:スタートアップの狂乱とコミュニティの拡大。対極にある二つの「組織」を同時に生きた
井上: その後、フリーランスとしての活動を経て、後のANYCOLOR株式会社(エニカラ、当時の「いちから株式会社」)に参画されます。どのような経緯だったのですか?
高瀬: 当時、僕はカメラマンやWeb制作の仕事を個人で請け負っていました。その案件の一つで、にじさんじを運営する会社の経営陣と出会ったんです。当時のオフィスは、お世辞にも立派とは言えない場所で、社員数名とインターン生が数人いるだけでした。
井上: その小さな組織が、数年後に上場し、時価総額数千億円の企業になる……。当時はその予兆を感じていましたか?
高瀬: 正直に言えば、ここまでの社会現象になるとは思っていませんでした。ただ、社長と話した時に、「この人は今回の事業自体が上手くいくかはわからないけれど、いつかデカい事業を作るんだろうな」という確信めいたものはありました。
井上: 高瀬さんはそこでどのような役割を担ったのでしょうか。

高瀬: 当時はまだ「VTuber」という概念自体が新しく、正解がない状態でした。僕はメインは広報/マーケティングでしたが、浅はかながらもエンジニアリングの知識やクリエイティブ、コミュニティ運営経験もありました。だから、その隙間を埋めるように何でもやりました。
自分と似たような境遇の、熱量の高い同期たちと切磋琢磨する日々は、まさに戦場であり、最高の学び舎でした。当時一緒に仕事をしたメンバーは今でも仕事をさせてもらう機会が多いし、同期という感覚が最も強いのもエニカラのメンバーです。
井上: コミュニティ(現ユースキャリア)での経験と、スタートアップ(現ANYCOLOR)での経験。この二つには大きな違いがあったのではないですか?
高瀬: 全く違いますね。コミュニティの目的は「人を残すこと」であり、一人ひとりの自己実現を支援することです。
一方で、スタートアップの目的は「事業とサービスを残すこと」です。時には、事業を成長させるために、最速で問題を解決するために、非情な決断をしなければならないのが日常でした。
この両極端な組織の在り方を、20代前半という早い時期に同時に体験できたことは、僕のビジネス観に計り知れない影響を与えました。
井上: そして2022年、会社は東証グロース市場へ上場します。
高瀬: 裏では色々とあったこともありますが、上場自体が決まったときは当然だろう思いましたし、時価総額が高く付いたときも、ようやく世間が気付いたかというのが正直な感覚でした。
それだけの強い社員、タレント、そしてこれだけ熱量高いファンがいる事業なんて無いだろうと思っていたし、VTuber企業としては圧倒的No.1VTuber事務所だと思っていました。
僕の心の中ではその頃、次のフェーズへの準備がすでに始まっていました。走り抜いた4年半、僕は「事業を伸ばす楽しさ」を知ると同時に、改めて「人が変わっていく瞬間に立ち会いたい」という、自分の原点にある欲求を再確認していました。
第8章:上場の5ヶ月後に辞めた理由――「工房X」設立の真意


井上: 上場という一つのゴールを達成した後、2022年11月に退職。そして、ご自身の会社である「株式会社工房X」を設立されます。さらにユースキャリア教育機構の副代表としても活動を広げられますが、なぜこのタイミングで「自分の会社」が必要だったのでしょうか。
高瀬: それが、自分でもどうかと思う理由なんですけど……「後輩がいたから」なんです。
井上: 後輩、ですか?
高瀬: はい。当時、僕の周りには起業を志す優秀な後輩たちがたくさんいました。ある時、一人の後輩から「会社で融資を入れたいんですが、どうすればいいですか?」と真剣に相談されたんです。
僕はANYCOLORで上場までの過程を辿ってきました。でも、自分自身の手で、0から1の法人登記をし、銀行と交渉し、事業を作り上げた経験はなかった。

井上: 知識としては知っているけれど、手触り感のある経験としては持っていなかった。
高瀬: そうなんです。その後輩に対して、借り物の知識でアドバイスをするのが、どうしても申し訳なかった。「自分が経験していないことを、偉そうに教えることはできない」と思ったんです。
けれど、ここは自己実現をサポートする場所だから、起業したい子は山ほどいる。
だったら、自分が先にやってみればいい。その一心で、上場の翌月に自分の会社を作りました。
井上: 教えるために、わざわざ会社を作った。
高瀬: はい。経験のために、僕も銀行から融資を受けていました(笑)。「あ、銀行との交渉ってこういう感じなんだ」「創業時の書類仕事ってこんなに面倒なんだ」ということを身をもって体験し、それを後輩にフィードバックする。
僕にとって「経営」は、自分の成功のためというより、次世代を育てるための「教材」のような側面があるのかもしれません。

第9章:「経営」が好きではない経営者が語る、本当の幸福論
井上: お話を伺っていると、高瀬さんは極めて合理的に、かつ情熱的に経営の道を歩まれているように見えます。しかし、「経営が好きっていう人、いらっしゃるじゃないですか。僕はそこは違うなと思うんです」と意外な発言もされていますよね。
高瀬: そうなんです。誤解を恐れずに言えば、僕は「数字を積み上げること」や「組織を拡大し続けること」そのものに快感を感じるタイプではありません。
経営という手段は使っていますが、根っこにあるのは「面白い仕事ができる自分になりたい」「自由でありたい」という極めて個人的で感情的な欲求なんです。
井上: 典型的な「起業家像」とは、少し距離を置いているのですね。

高瀬: 多くの起業家は、市場の課題を解決することや、時価総額を競うことにコミットします。もちろんそれは素晴らしいことですし、僕も仕事としてそこに向き合うときは徹底的にやります。
でも、ふと立ち止まったときに僕が一番幸せを感じるのは、数字が達成された瞬間ではなく、関わっている後輩の顔つきが変わった瞬間や、新しい体験をして「世界が変わって見えた」と言ってもらえた瞬間なんです。
井上: まさにそれが、ユースキャリア教育機構での活動に繋がっている。
高瀬: はい。かつて僕がユースキャリア内外での活動を通して人生の解像度が上がったように、非日常の中に身を置いて、自分を再定義する体験を提供したい。僕は「経営者」というより、誰かの人生のターニングポイントを設計する人間でありたいのかもしれません。
数字にコミットしきれない自分を「起業家っぽくないな」と悩んだ時期もありますし、もっとそうあった方が良いと思うことも多いです。しかし、「感情を軸にした経営」があってもいいと、少しずつ自分を許せるようになりました。

第10章:自己実現の連鎖――「誰かの幸せ」が「自分の幸せ」になる構造
井上: 高瀬さんの現在の活動を見ていると、自分の会社(工房X)、コミュニティ(スペシャリスト)、そして社団法人(ユースキャリア)と、複数の顔を絶妙なバランスで使い分けています。そのエネルギーの源泉は何でしょうか。
高瀬: かつて家から出られなかった僕を、宇野さんや先輩たちが「粘り強く」見守ってくれた。そのおかげで今の僕がある。だから次は、僕が後輩たちに対して同じことをしたい。
後輩たちが自分のやりたいことを見つけ、起業したり、新しい一歩を踏み出したりする。彼らが自己実現していくプロセスに並走することが、今の僕にとって最大のエンターテインメントなんです。
井上: 自分の幸せが、他者の幸せと「循環」している状態ですね。

高瀬: そうですね。自分が自由に生きるためには、周りも自由で幸せである必要がある。だから、後輩を支援することは、結果として僕自身の自由と幸福を守ることにも繋がっているんです。これは決して自己犠牲ではなく、極めて利己的で、かつ合理的な幸福の形だと思っています。
井上: 高瀬さんにとっての「幸福度グラフ」は、今はかなり高い位置で安定しているように見えます。
高瀬: 非常に良い状態です。起業しているという状態そのものが、僕にとっては「自由を求めてきた人間」としての正解でした。もちろんプレッシャーや苦労は絶えませんが、それすらも「自分で選んだこと」だという納得感がある。
この「自己決定感」こそが、幸福の核心にあるのだと感じます。
最後に:腰を重くしすぎず、ただ「粘り強く」あってほしい

井上: 長時間にわたり、高瀬さんの激動のライフストーリーを伺ってきました。今、この瞬間も「自分には何もない」「何を変えればいいか分からない」と悩んでいる若者たちがたくさんいます。最後に、彼らに向けてメッセージをお願いします。
高瀬: 経営や起業、キャリア構築という言葉を、あまり重く捉えすぎないでほしいなと思います。今の僕があるのは、何か特別な才能があったからではなく、ただ「辞めなかったから」です。
井上: 「粘りは合理的」という言葉ですね。
高瀬: はい。しんどい時は休めばいいし、家から出られなくなってもいい。でも、自分が「これだ」と思った場所との繋がりだけは、細くてもいいから切らないでほしいんです。世の中のハードルは、自分が思っているよりもずっと低いです。
僕のような、営業が苦手で、14歳で過労になり、何度も「辞めます」と言ってきた人間でも、粘り続けていれば上場だって経験できるし、会社を作れるし、楽しいと思える仕事もできる。
井上: 完璧である必要はない、と。
高瀬: 全くないです。まずはやってみて、うまくいかなければ少し休んで、また粘り強く再開する。その繰り返しが、いつかあなただけのライフストーリーになります。
ユースキャリア教育機構は、そんな皆さんの「粘り」を支える場所でありたいと思っています。一人で悩まず、ぜひ僕たちのような先人を頼ってください。一緒に、面白い未来を作っていきましょう。


